Bouz Bar4
第六夜★塗仏の内(ぬりぼとけのなか)・・・・前夜 「ふん、噂は本当だったんだ。本当にこんなBarがあったんだ。まあ、まだ噂のすべてが本当だったとは限らないがな。それにしてもふざけたBarだな。なにがBouz Barだ」 その男は吐き捨てるように言った。そして、扉を開いたのだった・・・・。 「不思議なBarがある。その店の裏メニューを頼むと、悩みごとが解決するらしい。妖怪とか霊とかが絡んでいるらしい。その店のマスターは坊主頭で、どうやらどこかの寺の住職らしい・・・・」 そんな噂をその男が耳にしたのは、その繁華街のとあるBarだった。その男は、そのあたりの一部の客たちに、霊感占い師として知られていた。 「あのなぁ、そんな変な店、本当にあるわけないだろ。ウソだよ、ウソ。裏メニューって・・・。で、なに?、その裏メニューのカクテルを飲むと、何かなるの?。えっ、呪いがかかる?。呪いがかかっちゃダメじゃん。そうじゃない?。知らない間に悩みごとが解決している?。あのねぇ、そりゃ、怪しいだろ。えっ、怪しいのはお前だって?、放っといてくれ」 「でもさぁ、その店、裏メニューのカクテル代だけしかとらないんだよね。あんたとは大違い」 そう言ったのは、Barのホステスだった。そもそも不思議なBarがあるという噂話を男にしたのは、その女だった。 「あんたは、悩みごとを占うだけで大金をとるけど、そのBarのマスターは、カクテル代しかとらないんだよね」 「人聞きの悪いことを言うなよ。俺だって生活があるんだから。それにそんなに大金をとってないぜ。否、むしろ良心的だね。TVに出てくるような怪しい霊感師のように何十万もとってるわけじゃないんだから」 「それにしたって、結構とるじゃん。数万円単位でしょ。ちょっと占ってもらうだけで数万って・・・。あぁ、あんたなんかに数万円も払う人の気持ちがわからないわ」 「嫌なことを言うねぇ・・・。だけど、そのおかげでこうやって飲みに来れるんだぜ」 「それはカモを見つけるためでしょ。この辺の飲み屋さんをうろついて、金をとれそうなカモを探しているんでしょ。見え見えよ。あ〜あ、あたしも、こんな男の手伝いをしなきゃいけないなんて・・・・はぁ、溜息だわ。私も行ってみようかしら、そのBar」 「行ってどうするんだ?」 「怪しい霊感占い師にとりつかれています。お祓いしてくださいって頼むの」 「バカ言え、お祓いは、俺の仕事だ。俺の方が、そういうことに関しちゃあ詳しいぜ」 「あんたがお祓いしているところ見たことないわ。本当にできるの?」 「当り前さ。まだ、頼まれたことがないだけだ。だけど、やり方は知っている。しかも、一種類じゃないぜ、いろいろなお祓いの作法を知っている。いつも家で修行しているんだぜ」 「でも、坊さんの資格はないよね。本職じゃない」 「本職じゃなくったって、そこいらの坊さんより仏教に詳しいし、霊的なこともできる。そのへんの坊さんじゃあできないだろ。いいか、俺にはな、霊感があるんだよ、霊感が。だから、人の悩み事など、すぐにピーンとわかるんだよ。何が祟っているかってな」 「ふん、すぐにそうやって祟っているっていうじゃん、あんた。ウソくさいよね、そういうの。本当に坊さんより詳しいのかしら。胡散臭いったりゃありゃしない。あんたから仏教の話なんて聞いたことないし」 「何言ってるんだ。俺は詳しいぞ。お前に話してもわからないから言わないだけだ。神降ろしだってできるんだぜ。守護霊をつけてやったり、とってやったりだってできる。どうだ、すごいだろ」 「またでた。あんたの口から出まかせ。それが胡散臭いっていうのよ。そんな話、あたしが信じるとでも思うの?。バカバカしい。そんなの詐欺だわ。インチキよ」 「詐欺じゃねぇよ、このクソ女め。あぁあ、クソ面白くねぇ」 「ホント・・・、相談に行ってみようかなぁ、あたしこのままでいいのかなぁ・・・って最近思うのよねぇ・・・・」 「俺に聞けばいいじゃねぇか」 「死んでもあんたには聞かないわ」 そのホステスは、そういうと、男を睨みつけた。 「ふん、わかったよ、俺がそのBarの正体を暴いてやる。どこにあるんだ?」 「どういうこと?」 「だから、俺がその店の噂の真相を暴いてやるって言ってるんだよ。だから、場所を教えろよ」 「あんた、本当に行くつもり?。止めたほうがいいわよ。相手は本職よ」 「本職って・・・あのな、坊さんがBarなんてやっていいと思うか?。そりゃ、本職じゃないよ。単なる拝み屋だろ、拝み屋」 「あんたは拝み屋ですらないじゃん」 「うるせぇなぁ、拝み屋なんかになる必要がないんだっていってるだろ。拝み屋なんてなぁ、胡散臭いだけだ。俺にみたいにちゃんとしたスーツを着てだな、手相・人相・姓名判断・霊感占いをするほうが、信用があるんだよ。わかったか、このドブス」 「失礼ねぇ・・・。まあいいわ。行けるものなら行ってみればいいのよ。場所はね、この裏通りの・・・・・」 女は、その男に噂のBarの場所を教えた。 「行ってみてさ、返り討ちにあってみればいいのよ。あんたが唯の詐欺師だってことがよくわかるわよ」 「あぁそうかい。そういうなら賭けてもいいぜ。俺がその胡散臭いBarを閉店に追い込んだら・・・・、俺と付き合え」 「いいわよぉ。賭けに乗ってやろうじゃないの。じゃあ、あんたが負けたらどうするの?」 「お前と縁を切ってやる。手切れ金を好きなだけやるよ」 女は、男を小馬鹿にしたように微笑んだのだった。 男は本気だった。ここで、噂になっているBarをつぶせば、一気にのし上がれる・・・そう計算したのだ。うまくいけば、そのBarを乗っ取ることもできる。そうすれば、念願の店が持てる。男には勝算があった。男は、それなりに書物をあさり、仏教や密教の知識をいろいろと持っていたのだ。ネットでも宗教関係のところに書き込みを頻繁に行い、「先生」「教祖」と呼ばれるくらいになっていたのだ。 「舐めてもらっちゃあ困るね。俺は、そこらへんの坊さんや仏教学者より、仏教のことは詳しいぜ・・・」 Bouz Barと書かれた薄汚いドアを前にして、男はそうつぶやいたのだった。 男はドアを開け、中に入っていった。店の中は、カウンターだけだった。右手にL型のカウンターがある。左の奥には・・・ジュークボックスが置いてあった。薄暗い店の中には客はいなかった。カウンターの中には坊主頭の陰気臭そうな顔色の悪い男が立っていた。この男がマスターなのだろう。 「ようこそBouz Barに。どうぞお好きな席におかけください」 陰気なマスターは、陰気臭く、暗い声でそう言った。男は入口近くの席に座った。 「ご注文は、何に致しますか?」 「裏メニューを」 男は、マスターの目を見て、そう言った。マスターは、一瞬目を細めた。が、すぐにその眠たそうなやる気のなさそうな目を開いて男に聞いた。 「どこでお聞きになったのですか?」 「噂になってますよ」 男は、そう言った。 「噂になってますよ、このお店。なんでも、不思議な店で、そこの不思議なカクテルを飲むと、悩みごとが自然に解決するとか・・・」 「何でしょうか、その話は?」 「さぁねぇ、私もよくわかりませんが、なんでも裏メニューを、というと、その不思議なカクテルが出てきて、それを飲むと悩み事が解決するんだそうです。うそくさいですよねぇ、そんな話。カクテルを飲んだだけで悩み事が解決するなんて」 男はニヤニヤしながらそう言った。マスターは表情を変えずに 「いやはや、本当に胡散臭い話ですねぇ。そんな話、誰も信じないでしょ」 と言った。 「とぼけるんですか?。裏メニューがあるのは本当なんでしょ?」 男は、マスターから視線を外さなかった。 「くっくっくっく・・・・」 「何がおかしいんだ、おい、あんた客に対して失礼じゃないか」 「いやいや、これは本当に、失礼いたしました。お客さんの話が、あまりにも・・・・、すみません、ついつい笑ってしまいました」 「いい加減に惚けるのは止めて欲しいね。火のないところに煙は立たないんだよ。あるんだろ、裏メニュー」 「はぁ・・・、どうしても裏メニューをご所望で?」 「さっきからそう言ってるじゃないか」 「何があっても知りませんよ。それでもいいんですね。私は責任をとりませんよ」 「あんたもしつこい」 「はぁ、そうですか、いいでしょう。ならば仕方がないですね」 マスターはそういうと、一度眼を閉じてから言った。 「わかりました。裏メニューですね。いいでしょう。ただし、これからここで行うこと、起こることは、決して口外しないことを約束してください」 「インチキだからか?。嘘だからか?、ウソをばらされたくないからか?。店がやっていけなくなるからだろ?。だから口外するなというんだろ?。はん、やっぱりインチキなんだ」 「いえいえ、そうじゃありません。うちの店がどう思われようとも、そんなことはどうでもいい。口外しないで欲しいといったのは、お客さん、あなたのために、ですよ」 「俺のため?」 「そう、これから行うこと、起きることは、ある呪いがかかっていることです。ですので、このことを口外すれば、あなたの身によくないことが置きます。実際に、ここであったことを話そうとした人がいました。その人は、二度と話すことができなくなってしまいました。ですので、口外をしないで欲しいといったのです。もし、しゃべろうとして、あなたの身に何かが起きても、私は責任をとりません」 「あはははは。そんな手は使い古された手だよ。インチキを暴露されないための、インチキだということを言い触らされないようにするためのね。そうなんだろ。なんだ、まいったなぁ。やっぱり、ニセモノなんだ」 「そう思われるなら、それで結構。裏メニューを出さないだけです。どうぞ、お引き取り下さい。あなたには悩みなどないようですし」 男は、しまったと思った。これでは、インチキが暴けない。なんとしてでも裏メニューを出させなくてはいけないのだ。 「裏メニューなんてないんじゃないのか、本当は?」 「そう思われるなら、それで結構です」 「あ、あんた、店がバカにされるようなことになってもいいのか?。評判が落ちてもいいのか?」 「一向に構いませんが。それにこの店がどう思われるかは、あなたには関係のないことですが」 「まあ、確かにそうだが・・・・・」 男は考え込んだ。 (クッソー、このマスター、一筋縄ではいかないなぁ・・・。さて、どうするか、ここは折れるか・・・・) 「お客でもない方に居座られても困ります。ご注文がないなら、どうぞお帰り下さい」 マスターは、冷たくそう言い放った。男は、大きく息を吸うと 「悪かった。マスター、あんたの言う通りだ。俺が悪かったよ。ついつい言い過ぎてしまった」 と言って、軽く頭を下げたのだった。そして、言った。 「改めて注文するよ。裏メニューを」 「お断りいたします」 間髪のないマスターの言葉に、男は驚いた。 「謝っているじゃないか、すまなかったと・・・・。謝っているのに、ダメだというのか?」 「そうじゃありません。悩みのない者に裏メニューをお出しするわけにはいかないのです。あなたには、裏メニューを注文する資格がないのです」 「あっ、そういうこと・・・・なのか・・・・。ならば、俺は裏メニューを注文する資格がある。俺には悩みがあるんだ」 「本当ですか?」 マスターは、男に顔を寄せて、低く小さな、不気味な声でそう尋ねた。 「ほ、本当だ、本当に悩みがあるんだ」 マスターは男の眼をじっと睨んでいた。しばらくして 「いいでしょう。ただし、これから行うこと、起こることは、決して口外しないようにしてください。否、そうですね、そこは好きにしていただいて結構です。呪いが怖くないなら、口外されるのも自由です。ですが、呪いはあります。注意だけはしておきましたので、もし、あなたがこれから行うこと起こることを第三者に口外して、呪いがかかっても・・・・私は知りません。よろしいですね」 マスターの目が一瞬、怪しく光ったように男には見えた。男は不安になった。 「も、もちろん、口外しませんよ。否、たとえ誰かに話そうとして、俺が呪いにかかっても、それをマスターのせいにはしませんよ。それに・・・」 「それに?」 「否、何でもありませんよ」 (それに、呪いなんてあるはずないしな。本当の呪いなんてないんだ。よしんば、あったとしても、それは解いてしまえばいい。解けない呪いなんてないからな。その方法だって俺は知っている。そう、俺には怖いものなんてないんだよ。これは勝負なんだ。しかも、俺が勝つと決まっている勝負だ。くくくくく・・・・・) 男は、ほくそ笑んだ。マスターは、そんな男の表情を無視して、木札を一枚出してきた。 「何なんだ、その札は」 「これは京都のとある銭湯の靴箱の木札です」 「あぁ、そう言われてみれば・・・・靴箱のカギの木札のような・・・・」 「そう、それです。しかし、その銭湯は今はもうありません。火事で焼けてしまった」 「そりゃあ、お気の毒に」 「で、残ったのがこの木札一枚です。そのためなのか、この木札には呪いがかかっています。この呪いは、どうあっても解くことはできませんでした」 「それは、呪いの解き方を知らなかったからじゃないのか」 「そうかもしれません。この呪いに有効な、解縛(げばく)の法が見つからなかったからかもしれません。呪いを解くには、その呪いが如何なる呪いかを知って、それに合わせた法を行わねばなりませんからね。あなたもよくご存じだとは思いますが」 「あっ、いや、まあ、そうだな。そう、呪いに合わせた解き方をしなければ、返り討ちにあってしまうからね。それくらいのことは俺でも知っている」 「そうですよね。で、この木札にかかった呪いは、解けなかったんです。怨念が深いんですね。ですので、危険が伴います。それでも裏メニューを希望されますか?」 「くどいなぁ、そんな呪い、俺は怖くないって。さっさと進めてよ」 「よろしい。では、この木札を握って・・・そう両手で握るのです。で、10数えてください。ゆっくりとね」 「こ、これを握るのか?。あぁ、わかった。こうだな。で、10数えるんだな」 男は、木札を恐る恐る握った。そして、数を数え始めたのだった。 「はち・・・きゅう・・・じゅう・・・あっ、なんだ、こ、これは!」 男はびっくりして木札を放りだした。 「何を驚いているんですか?。呪いのかかった木札ですから、木札が震うくらい当然ですよね」 マスターは、小馬鹿にしたように、そう言った。 「こ、怖がっているんじゃない。びっくりしただけだ。誰だってびっくり箱には驚くだろう。どっきりカメラに引っかかったようなものだ」 「そうですね・・・・。おや、字が浮かんできましたよ」 「字が?、木札に?」 「そう・・・、ほう『塗仏(ぬりぼとけ)』ですか」 マスターはそういうと、木札を手にとって、浮かんだ文字を男に見せた。 「ほ、本当だ・・・文字が・・・。さっきまで何も書いていなかったのに・・・・。あ、いや、それは手品だろう。TVでもやっているように、あらかじめその文字を特殊なインキで書いておいたのだろう。で、手で握ったことにより、木札の温度が上昇してその文字が浮かんだんだ。トリックだ、そうなんだろ、マスター」 男はまくし立てた。マスターは、悲しそうな顔をして男を見つめた。 「そう思うのなら、それでもいいでしょう」 一言そういうと、マスターは、男に背を向けたのだった。 (何が、そう思うのならそれでいい、だ。その手に乗るかっ!。図星だったから、そう言ったにすぎない。これで一つ、トリックがばれたな) 男は自問自答しはじめた。 (じゃあ、木札が震えたのは?。簡単だ。バイブレーターが木札に埋め込んであるに違いない。で・・・そうだ、声、いや言葉だ。言葉に反応するんだ。マスターは10数えろと言った、十まで数えると木札が震えた。ということは、そうか『じゅう』という言葉に反応して震えるようになっているんだ。なかなか手の込んだ木札だな。これで今までのトリックは暴いたぜ。さて、次は何だ?) 男は、落ち着きを取り戻したのだった。 「お待たせいたしました。これがお客さんの注文になった、裏メニューの『塗仏』です」 マスターがそう言って差し出したカクテルは、漆黒のカクテルだった。否、よく見ると、ところどころに金色の筋が入っている。漆黒に金の筋・・・・。そのカクテルは、まるで仏壇か霊柩車を連想させた。 「こ、これのどこが塗仏なんだ?」 「仏像は、漆で塗ってあります。何度も何度も漆塗りを施してあります」 「知ってるよ、そんなことは。その上に金箔をはるんだろ」 「そうですね。しかし、やがてその金箔は薄れてくる。古くなった仏像は、金箔がはげ、漆塗りだけの真っ黒な仏像になってしまう。ところどころに金箔のあとを少しだけ残して・・・・」 「あぁ、それでこのカクテルは真っ黒なのか。それで金の筋が入っているんだ・・・。どうやって作ったのかわからないが、うまく作ってあるじゃないか」 男はそういうと、にやりと笑ってカクテルを飲んだ。 「ほう、うまい。見た目に似合わず、うまいじゃないか、このカクテル。あとで作り方を教えて欲しいものだ」 そういうと、一気にカクテルを飲み干したのだった。 数分が過ぎただろうか。否、ほんの30秒ほどだったのかもしれない。男はカウンターに伏せてしまった。そして、すぐに頭をあげて苦しそうに言った。 「い、いったい、何を・・・・入れたんだ・・・。どんな薬を・・・・入れた?・・・・うっ、こ、この・・・・、やりやがった・・・・な・・・・」 そういうと、その男は、床に崩れ落ちたのだった。 「何も入れてませんよ。呪い以外はね」 マスターの不気味な笑顔が男を見つめていた。 ☆塗仏の内(ぬりぼとけのなか) 後夜 「ふ、ふざけるな・・・・身体が・・・しびれる・・・・。頭が・・・・くっそ〜・・・う、訴えて・・・やる。い、違法な薬に・・・」 男はそういうと、床に倒れこんだのだった。 「失礼な、薬なんて使ってないのにねぇ。まあ、ちょっと呪いが効きすぎたようではありますが・・・」 マスターは手に持った呪いの木札を見つめて、うっすらと笑ったのだった。 どのくらい時間が流れたのだろうか。男は、唸り声をあげながら起き上がり始めた。 「く、くっそ〜・・・・何が・・・呪いだ・・・。お、俺には霊感が・・・あるんだ。ほ、本当に呪いなら・・・すぐにわかるんだぞ・・・」 「気がつきましたか。そのまま呪いに飲み込まれてしまうかと思いました。思ったよりも・・・霊に弱いんですねぇ」 「な、なんだと!・・・・この俺を誰だと思っているんだ!」 男は激高し、勢いよく立ちあがった。マスターはさらに男をからかうように言った。 「誰かって?。さぁ・・・・そうですねぇ、胡散臭い占い師?、いいや、詐欺師か?。違いますか?」 「く、くぉのやろう〜!!」 男はマスターに掴みかかろうとした。マスターはそれを軽くかわすと、 「霊感があるのでしたら、この呪いにすぐに気がつくはずですが・・・」 と冷たく言い放ち、カウンターの上に木札を置いた。 「手に取ってみなさい。これが本物の呪いですよ。トリックなんかじゃない、本物の呪いです」 マスターの声が不気味に響いた。 「う、うるせー、こ、こんなの呪いじゃない!。トリックだ!」 男はそう叫ぶと、木札を手に取った。その途端・・・。 「う、うわぁぁぁぁ、や、やめろぉぉぉ」 そう叫んだかと思うと、木札を放りだしていたのだった。 「わかりましたか?。これが本当の呪いなのです。あなたのような素人が扱えるものではない!」 マスターは厳しい目を男に向けた。男の息遣いは荒くなっていた。 「ほ、本物の呪いだと?・・・・ふん、まあいい。認めて・・・・やろう・・・・」 男は大きく息を吸ってからそういった。少し落ち着きを取り戻している。 「だけど、あんたも素人だよな・・・・はぁ・・・ふう・・・。その呪いを解けないんだからな。その方法を知らないんだ・・・。あはははは」 「あなたに言われたくはないですけどね。この木札すら手にとれないような、あなたに・・・・。でもまあ、あなたの言っていることもある意味正しい。そう、この呪いは解けなかった。否、解かなかったといった方が正解か・・・・」 「ふん、負け惜しみを・・・・。いや、ごまかしか?。いい加減なことを言うなよ・・・・。あんた、本当の職業は何だ?。Barのマスターが本職じゃないんだろ?」 男は勢いを取り戻したのか、マスターに顔を近づけ、そう聞いてきた。不気味に笑いながら・・・・。 「知りたいですか?。まあ、隠すつもりもありませんが・・・」 「もったいぶらないで早く言えよ。言えないんなら、俺が言ってやる。あんた坊主なんだろ?」 「えぇそうですが。私は僧侶ですよ。坊さんです。このBarの名前からもわかると思いますけどね」 「宗派は?」 「真言宗ですが」 「ほう・・・密教じゃねぇか。ならば、呪いが解けないなんておかしいだろ。ふん、あんた坊さんとしては三流か・・・・」 「そうかもしれません。が、あなたは、その三流の僧侶ですらない」 「そんな資格は俺には必要ねぇんだよ。俺には、仏教や密教、神道、道教、陰陽道のいろんな知識がここに詰まっているからな」 男はそう言うと、自分の頭を指さした。 「それはそれは、ご立派な。では、あなたが触れなかった、この木札の呪いの解き方を教えていただきましょうか?。私は触れるし、手に取ることもできますけどねぇ・・・・」 マスターは、口の端を曲げて笑いながらそういうと、カウンターの上に放りだされていた木札を拾い上げ、男に差し出した。 「さぁ、この木札の呪いの解き方を教えてください。どうすればいいのですか?。さぁ・・・・」 男は少し後ろに下がる。顔が引きつっていた。額には汗が流れている。 「どうしたのですか?。手にとって、この呪いをかけた者と同調しないと、この呪いの本質は分かりませんよ。さぁ、手に取ってください。霊感があるんでしょ?」 「そ、そんなもの手に取らなくてもわかる・・・。その呪いを解くには・・・・・護摩の火にくべればいいんだ」 「安易な・・・。威張ってたわりには、答えがそれですか・・・・。あなた本当に密教にも詳しいんですか?。まあいいでしょう。一つ言っておきます。いいですか、大火事で燃えなかった、焦げ跡すらなかった木札ですよ。燃えると思いますか?」 「ご、護摩の火は火事の火とは違う。特別な火だからな・・・・」 「結局あなたは実践を知らない。知識だけで判断をしているから、そんな安易なことが言えるんですよ。先ほども言いましたが、私は真言宗の僧です。そんなこと試さないわけがないでしょう」 「う、うぅぅ・・・、ならば、あんたの法力が足りないんだろ・・・・」 「今度はそれですか。苦しい答弁ですね。いいですか、私は一応プロですよ。しかも、昨日今日なったばかりの僧侶とは違う。長年やってるんです。はぁ・・・もういい加減に認めたらどうです?。自分には霊感などない、と。すべてハッタリだと・・・・」 「う、うるさい!、俺は仏教にも密教にも・・・・」 「精通しているんですよね。だから、なんです?。仏教に精通しているならば、悩みなどないはずです。本来、仏教とは悩みを無にする、すべての苦から解放されるための教えです。その教えに精通しているならば、何も悩まないでしょう。ハッタリをかまして、占い師のまねごとをして、世間を欺き、人をだまして生きているあなたが、仏教に精通しているとはよく言ったものだ。そんなに言うのなら、さぁ、この木札の呪いを解いてみなさい。あなたの言うことが真実ならば、その対処方法もわかるはずです。どうせ、私のことを胡散臭いただのハッタリマスターだと思っていたんでしょう。自分と同じレベルで物事を考えないことですね!」 いつになく厳しいマスターの声が店に響いた。その声はさらに男に向かっていった。 「いい加減に、ウソをつくのは止めなさい。ウソで塗り重ねた自分を捨てたらどうですか?。あなたはウソと言う漆で塗り重ねられた、中身のないニセモノの仏・・・空っぽの塗仏なのですよ!」 マスターの声は、鋭く男の心をえぐったのだった。 「お、俺だって・・・俺だって・・・・認められたい、みんなから・・・・頼りにされたかったんだよ・・・・・それだけだったんだよ・・・・」 男はそう言うと、力なくストンと椅子に座った。男の眼には涙がたまっていた。 「誰も、誰も・・・・俺を相手にしてくれないんだ・・・・。俺に聞けば・・・俺に聞いてくれれば・・・・何でも答えてやるのによぉ・・・・。昔からだ・・・中学?、否、小学校の時からだ。気が付いたら俺は・・・・みんなが噂し合っていることや疑問に思っていることに興味を持ち始めたんだ。俺はそうしたことを徹底的に調べた。みんなの噂や疑問に応えるべく、徹底的に調べたんだ。で、俺は彼らに答えてやった・・・・。初めはみんな驚いたさ。すげぇすげぇ、って言ってくれた。お前は天才だ、とね。みんながもてはやしてくれた。俺は嬉しくなって、みんなが疑問に思っていることをどんどん調べた。みんなも俺に聞いてきた。これはどういうことだ?、これの意味は?・・・・楽しかったよ。でも・・・・そんなのは長続きしなかった。俺は・・・・聞かれてもいないのに、みんなが話し合っている中に入り込んで、みんなが疑問に思う前に答えを言ってしまっていた。得意そうな顔をして。はっ、とんだ勘違い野郎さ。今思えば大バカモノさ。推理小説の答えを先に言ってしまうようなものだからな。いい迷惑だよな、彼らにしてみれば・・・・。俺は・・・結局・・・・一人ぼっちになった。誰にも相手をされなくなったんだ・・・・。惨めだった、悲しかった。みんなを恨んだ。そんな頃からか。占いに興味を持ち始めたのは。占いならば、またみんなの注目を集められる・・・・そう思ったんだ。俺の占いは意外にもよく当たった。みんな喜んださ。再び、俺は人気者だ。だけど・・・・だけど・・・結局は長続きしないんだよ!。そのうちにあいつらは・・・・怒りだした。いい加減なこと言うな、ひどいこと言うな、ウソばっかりだ、お前のせいで友達とケンカした、彼と別れた・・・・お前の占いは外れた、当たらない、嘘つき、嘘つき、嘘つき・・・・うわぁぁぁぁ、嘘つき嘘つき嘘つき・・・・みんなで俺を責めるんだ。いつもいつもいつも・・・・。俺は・・・・俺は・・・・嘘つきなんかじゃない!。本当のことを言ったまでだ!。能力がないって手相に出ているから、そう言ったまでだ!。感情が歪んでいるって手相に出ているから、そのまま伝えたんだ!。相手がお前のことを恨んでいると占いに出ていたからそう言ったまでだ。そんなのが原因でケンカになったって俺は知らねぇ。性欲が強すぎだって・・・そう出ていたから・・・・そう言ったまでだ・・・。何が『私に恥をかかせた!、お前のせいで淫乱な女と言われるようになった、責任を取れ』だ・・・。俺は、何もかもそのままを言っただけなのに・・・。なぁ、あんたそう思わないか?。バカなヤツに、お前はバカだと言ってなぜ悪い?。できない奴にダメ人間と言ってどこがいけないんだ!」 「そりゃあ、いけないでしょう」 マスターの冷たい声に男の顔がゆがんだ。 「なぜ・・・なぜ・・・なぜいけないんだ・・・・」 「簡単です。そう言われた本人は、プライドを傷つけられるからです。もし、真実を伝えたいならば、言い方を工夫しなければ、相手に恨まれるだけです。そんなことは当たり前のことです」 「あっ・・・・。だけど・・・・だけど、当たることも多かったんだ。俺は・・・占いは得意だった。勘も鋭いと言われたんだ。だから、みんな頼りにしていた。それがいつの間にか・・・・くっそ〜、あいつら、自分の都合のいいときだけ俺を利用しやがって・・・・。都合の悪いことはみんな俺のせいだ。どいつもこいつも勝手なやつばかりだ。俺は、俺は、お前らのためにあるんじゃねぇ・・・・。お前らは、お前らは、俺の言うことを聞いていればいいんだ!。俺を尊敬しなければいけないんだ!。俺を敬え、俺に従え、俺の言うようにしろ!。そうすれば、みんなうまくいくんだぁ!」 男は両手を突き上げ、大声で叫んだ。 「それがあなたの本音ですね。あなたの本性だ。あなたは、周囲から尊敬されたいだけなのです。由緒あるお寺の仏像のように、みんなから手を合わせられたいだけなのだ。唯それだけなのです」 「あぁ、そうだよ!、だけど、それのどこが悪い!。誰だって尊敬されたいだろ!。誰だってみんなから敬われたいだろ!。それを望んで何が悪い!」 つばを飛ばしながら、男はわめいた。 「悪くはありません。しかし、寂れてしまったお寺の仏像が見向きもされないように、中身のない人間は誰にも尊敬はされませんよ。残念ながら、あなたには中身がない。今でもそうだ。だから、占い師にもなれなきゃ、コンサルタントにもなれない。まして坊さんにもね・・・。何をやっても、中身がないから信用が得られないんですよ」 マスターの厳しい口調に、男は一瞬ひるんだが、すぐにマスターを睨みつけた。そして、マスターの顔を指さし 「お前が言えた義理かっ!。坊主のくせしてBarのマスターだって?。ふざけるなよ!。何が裏メニューだ。何が呪いだ!。すました顔をしやがってっ!。何でも知ってるぞ、心を見抜いているぞ、みたいな顔をするなっ!。くそったれがぁ〜!。うわぁぁぁぁ」 大声をあげて泣き出した男を見て、マスターは悲しそうな顔をした。そして 「あなたは何もわかってはいない。他人の心を、胸の内を、事情を知ろうとしない。それでは・・・・誰もあなたを尊敬はしない。あなたは、ただ周りの人間が羨ましいだけなのだ」 と寂しい声で言ったのだった。 「うるせー、憐みなんていらねぇよ。そんなことはわかっている。わかっているんだ・・・・・。俺は・・・・ニセモノだぁ・・・・」 そういうと、男はカウンターに伏せって、「わかっているさ」と大声で泣き喚いていた。 「本物を目指せばいいじゃないですか。今からでも遅くはない」 男の泣き声が落ち着くのを待って、マスターはそう言った。 「ハッタリではなく、本当に修行してみればいいじゃないですか。本物になれば、尊敬も得られます。空っぽの中身を修行で埋めたらどうです?」 「俺にどうしろって言うんだ」 男は、涙と鼻水で汚れた顔をあげた。髪もくしゃくしゃになっていた。 「占い師になるならなるで、ちゃんとした先生に弟子入りしたらどうです?。僧侶になるならなるで正式に出家したらどうです?。あなたは、知識はあるかもしれませんが、実践ができていない。ですから、知識を応用できない。応用できないから、安易な道に走るんです。つまり、霊感やいい加減な占いにね。ちょっと変わったこと言えば、霊感があるようなことを言えば、みんな驚く。驚けば自分の方に注意が向く。そのため、自分を尊敬してくれていると勘違いするんですよ。いいですか、それは大いなる勘違いです。あなたのは、中身のない、厚みのない薄っぺらなものなのですよ。だから、周囲からの評価が落ちていくのです。すぐにメッキがはがれるのです。どうしても、人々から尊敬されたい、注目を集めたいと思うのなら、それなりの努力をしなければなりません。知識を生かすノウハウを得、それを使いこなす努力をしなければなりません。何もせずに、ハッタリだけで通用する世界じゃありませんよ、占いも宗教もね」 「そ、そんなことわかっているよ・・・・・」 「わかっていませんよ。わかっていないからこそ、今までいい加減な、詐欺師のような状態でいたんでしょ。手間を惜しんじゃあ、いい仕事はできません。尊敬を得たいのなら、人々からすごいねと言われたいのなら、中途半端なことはやめて、占い師なり、僧侶なり、正式に弟子入りすることです」 「で、でも・・・・どうやって・・・・・」 男は眼をきょろきょろさせた。 「そんなことは、調べればいいでしょう。今はいい時代です。ネットがあるじゃないですか。調べれば分かるはずです」 「あぁ、あぁ、そう・・・なのか・・・。そうだよなぁ・・・・。そうか、俺は・・・・半端者なんだ。上っ面だけなんだ。格好つけてただけなんだ・・・・・・。いつの頃からだろう、頑張りをやめたのは・・・。あの頃は・・・・みんなに気に入られるために頑張ったよなぁ、俺は・・・。一生懸命調べたよなぁ・・・。覚えるまで頑張ったよなぁ・・・。努力したよなぁ・・・・・。いつ・・・・いつ・・・・道を間違えたんだろう・・・・」 男は再び泣き始めたのだった。 「マスター」 男がふと声をかけてきた。 「ありがとう・・・。何だか、目が覚めたよ。俺、中身がなかった・・・。上っ面だけで生きてきた。それじゃあ、うまくいかないですよね・・・・。マスター、まだ、俺・・・・やり直せますか?」 「もちろんです。まだ、あなたは若い。十分にやり直せます」 「そう・・・ですか・・・そうですよね。そうか・・・やり直せるか・・・・」 「勇気を持って一歩前に踏み出すことが大切です。何事も、一足飛びにはできません。一歩ずつ、一歩ずつですよ」 「そう・・・ですよね。わかってはいるんですが・・・・結果を早く求めてしまうんですよね・・・・。わかりました。俺、また出直します。今度は、地道に努力します。そうですよね、手間を惜しんじゃ、いい仕事はできませんよね。いい仕事ができなければ、誰も認めてはくれませんよね・・・・。ありがとうございます、マスター・・・・・。目が覚めましたよ」 男は立ち上がった。 「本物になったら、また来てください」 マスターは優しく微笑んで男に言った。 「はい、そうします。それまでは・・・・この街には戻りません」 男はそう言うと、マスターをまっすぐ見て口を引き締めた。マスターも、微笑んでうなずいたのだった。 「ところでマスター、俺には霊感なんてないんで本当にわからないんですが、その木札って本当に呪われているんですか?」 男は、今までとは打って変わって陽気に聞いてきた。 「えぇ、この木札には強力な呪いがかけられているんですよ。この呪いは、祓うことはできません。なぜなら・・・・」 「なぜなら?」 マスターは、急に暗い顔になった。目が悲しそうに沈んでいる。 「ある男性の・・・・意思が込められているからです」 「それはどういうこと・・・・?」 マスターは、首を横に振った。 「これ以上は、知らないほうがあなたの身のためでしょう。この木札と・・・・あぁ、やめましょう。こんな話は・・・・」 マスターは、途中で話を打ち切った。マスターの目は、恐ろしく暗く沈んでいたのだった。 「す、すみません・・・・何だか怖いな。聞かないほうがいいですね。すみませんでした・・・・・。さて、俺は行きます。もうこの街の誰にも会うことなく、このまま立ち去ります。まずは、一度、実家に戻りますよ。そこから出直します。ウソで塗り固められた人間をやめるために・・・空っぽの塗仏をやめるために・・・・原点である故郷に戻ります」 そういうと、その男は裏メニューのカクテル代をカウンターの上において店を出て行ったのだった。 「次に来られる時は、中身がある塗仏になっているといいですね・・・」 マスターは、閉められた店のドアを見つめ、そう言った。そして、手にした木札を見つめてつぶやいた。 「本当に恐ろしい呪いだよ、君は・・・・」 と・・・・・。 数日後の夜遅くのことだった。見るからに水商売とわかる女が一人、Bouz Barのドアを開いた。 「いらっしゃいませ。ようこそBouz Barへ。お好きな席におかけください」 「客がいないのね。暇そうな店」 女はそういいながら、カウンターの中央、マスターの立っている前に座った。 「ブランデーがいいわ」 女は差し出されたブランデーをしばらく眺めていた。ふとグラスを手に取ると、一気にブランデーを飲み干した。 「はぁ・・・ねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ」 「なんでしょう」 「ここ最近、胡散臭い男が来なかった?。自称・霊感占い師。来たでしょ?」 女は上目遣いでマスターを見た。たいていの男はこの目で見つめれば、ニヤッとし、心を許すものだと女は思いこんでいた。 「えぇ、来ましたが・・・それが?」 マスターは表情を変えずに、そう言った。女はつまらなさそうに視線をカウンターに落とした。組んでいた足を組みかえる。 「はぁ・・・まあ、どうでもいいんだけどさ・・・・。あの男、一応、私の金づるだったんだよねぇ。それがさぁ、このところ連絡が取れないのよ。店にも来ないしさぁ・・・・」 女は視線を泳がす。 「そうですか。私は何も知りませんが・・・・」 「知らない・・・・うふふふ・・・・知らないねぇ・・・。賭けに負けたから・・・逃げたんだ、アイツ・・・・」 「賭け?・・・ですか?」 「そう賭け・・・私との・・・・。でも、まあいいか・・・・。じゃあさ、マスターが私の相手してくれる?。アイツがいないと・・・・嫌な奴だったけど、大ウソつきだったけど・・・・、アイツがいないと、暇なんだよねぇ・・・あたし・・・、賭けなんて、どうでもいいのに・・・・」 女の頬を涙が一筋、流れていった。 「どうぞ、ごゆっくりしていってください」 マスターは、空のグラスにブランデーを注いだのだった・・・・。 塗仏の内(ぬりぼとけのなか) 完 ☆第七夜 陰摩羅鬼(おんもらき)の棘 前夜 その女は雑貨店から広い通りに出てきた。眉間にしわが寄って、口が曲がっていた。小声で 「ふん、失礼な店員だわ。あんな店員を雇ってるなんて・・・そのうち潰れるわ」 とブツブツ言っていた。 「あれ?、先輩ですよね。あぁ、先輩だ。お久しぶりです」 その女に声をかける者がいた。女の片方の眉がつり上がった。 「先輩が会社辞めてからですから、1年ぶりくらいですか?。元気そうですね」 女は話しかけてきた後輩らしき女の顔を眺めた。・・・・ふん、相変わらず、コイツは空気が読めない・・・女はそんなことを思いながら、眉間にしわを寄せたまま言った。 「元気そうじゃない。会社、うまくいってるんだ」 「えぇ、なんとか廻ってます。なかなか大変ですけどね」 ・・・ふん、そうだろう、お前らの能力じゃねぇ・・・と、女は思ったが 「あら、よかったわね。じゃあ、私は急ぐから。ちょっと忙しいのよね」 と、後輩をよけて先へ行こうとした。が、次の言葉がその女の足をとめた。 「先輩、相変わらずですね。ピリピリしてて・・・忙しいんですね」 その言葉の中に侮蔑が混じっているのを女は聞き逃さなかった。・・・・やっぱり、コイツラは私をバカにしてるんだ。どいつもこいつも偉そうな顔をして・・・・・。 その女が会社を辞めたのはほぼ1年前のことだった。 「あんな小娘がチーフですって?。課長は、この課を潰す気ですか?」 「なんでだ?。彼女は最近、ずいぶん変わっただろ。周囲の意見も聞くようになったし、穏やかになった。彼女のほかにいい人材は・・・今のところいないしね」 課長の顔は、明らかにお前じゃダメだ、と語っていたが、女は食い下がった。 「あんな何もわかっていないような人に、チームをまとめられるっていうんですか?」 「そうだなぁ、少なくとも、いつも眉間にしわよ寄せ、口を曲げて不服そうな顔をしている・・・・そんな人よりは使えるよな」 課長のその言葉に女はキレた。 「もういいです。あんな小娘の下にいるなんて、私には耐えられません。辞めさせて頂きます」 その声に周囲にいた者たちは、みな首をすくめ関わらないようにしていた。 「そうか・・・残念だなぁ、それは。あぁ、辞表はちゃんと出してくれよ」 女は怒りに唇を震わせていたが、何も言わずその場を去っていった。肩をいからせ、腕を大きく振り、ドスドスと足音を立て、ブツブツと呪いの言葉・・・・こんな部署、絶対つぶれるわ、こんなバカなヤツらばかりの会社なんてこっちからオサラバだわ。うまくいくわけがない。みんな不幸になるんだわ。いい気味だ・・・・を吐きながら。 「あの時の先輩も怖かったですけど、今も・・・キャリアウーマンって感じですね。あっ、いけない。会社に帰らなきゃ」 ・・・・何がキャリアウーマンだ、嫌みなヤツだ・・・・ふん、もういい年なのに、カワイコぶりやがって、気持ちの悪い・・・・などと女は思ったが、口には出さない。 「そうよ、私、忙しいの。こんなところで油売ってる暇はないのよ。あっ、そうそう、あの部署、うまくいってるの?。あなたまだチーフ?」 「えぇ、お陰さまでうまくやってます。ちょっと慣れ合い過ぎかなっていうところはありますけど、実績も上がってますよ。私みたいな頼りないチーフだから、みんなが支えてくれてます」 「ふ〜ん、相変わらず、ぬるいのね。私にはそういう、ぬるま湯は、とても無理だわ。じゃあ」 女は薄笑いを浮かべ、その場を立ち去ろうとした。 「先輩も、もう少し穏やかになれば、いいところいっぱいあるのに・・・」 「何それ?、どういう意味?。アンタ、何が言いたいの?」 女は後輩を睨みつけ、腰に手を当てて迫った。 「どういう意味、何を偉そうにアンタ言ってるの?」 「い、いえ、その・・・」 あちゃー聞こえちゃったか・・・とつぶやいたその声も聞こえていた。 「嫌な女ね。ハッキリ言ったらどうなの。ふざけないでよ。何が聞こえちゃったか、よ。聞こえるように言ったんでしょ」 「えー、それは誤解です。誤解ですよ・・・・えっと・・・」 「何よ、早く言いなさいよ。そんなだから、アンタダメなのよ。アンタの下にいるものは不幸だわ。さぁ、早くハッキリ言いなさいよ」 「えっと・・・その、私も・・・以前はピリピリしてたけど・・・その変ったんです・・・・そしたら、周囲の人とうまくいくようになって・・・」 「何よそれ、私が周囲の者とうまくいっていないとでもいうの?。何も知らないくせに!。大きなお世話よ。バカにするのも程がわるわ」 女は後輩と名乗る女を一睨みすると、薄笑いを浮かべ背を向け、その場を去りかけた。後輩の女はその後ろ姿に 「Bouz Barに行くといいですよ。きっと、何かが変ります」 と声をかけた。 「この通りの北側の裏通りです。目立たないけど、探せばわかります。ぜひ、行ってみてください」 女は返事もせず、肩をいからせ、腕を大きく振り、ドスドスと歩いて去っていった。残された女は、その後ろ姿が消えるまで見つめていた。 「ちっ、なんで私がこんなところに・・・・」 女は薄汚れたドアの前に立っていた。ドアには「Bouz Bar」と、うっすらと書いてある。 「やる気あるのか、ここの店主は?。もっとはっきり書きなおすべきだわ。これじゃあ、よく見なきゃ誰もわからないじゃないの。なんて不親切な店なのかしら」 女はドアを睨みつけながら、ブツブツ文句を垂れていた。 ひと月ほど前、嫌な女にあった。以前勤めていた会社の後輩である。その後輩が自分を出し抜いて、プロジェクトチームのチーフになったことをきっかけに、女は会社を辞めたのだった。 「どいつもこいつも無能なくせに・・・・」 その後輩の女が別れ際に言った言葉・・・・「Bouz Barに行けば、何かが変わる」・・・・が、どうにも忘れられなかった。気にしないでおこうと思うと、余計に気にかかってしまうのだ。女は調べてみた。Bouz Barについて、情報を集めたのだ。すると、どうもこのBarでは、不思議な飲み物を出すらしく、それを飲んだ者は、確かに何かが変わるらしいのだ。誰もが、それまでの自分ではなくなり、未来が開けてくる・・・というのだ。そんなバカなことはない、と女は思った。そう簡単に人は変われるものではない。飲み物を飲んだだけで、人が変われるならば、そんな手軽なことはない。そんな飲み物を出す店があるなら、その店はもっと話題になっているはずである。 が、その店にはいわゆる因縁話がついていた。どうやら、詳しい話をすると、呪われるらしい。実際に一人の男が、このBouz Barの飲み物に関し詳しく話そうとしたら、倒れてしまったというのだ。しかも、それ以来、しゃべることができなくなってしまった。女はこれもウソくさい話だと思っていた。それでは・・・よくわからないが・・・・傷害罪だろう、などとも思う。だいたいそんな呪いなんて、いまどき・・・・。女はそう思っていた。 「今、確信したわ。真実はそんなものよ、ウソばっかりだわ」 ドアの前で女は力強く言った。 「ここの店主は知らないのよ。街の噂をね。こんなうらぶれた店が、噂になっているなんて知らないのよ。一種の都市伝説ね。こんな汚いドアだから、そんな噂が立つのよ。注意してやらなきゃいけないわ。迷惑な話だからね」 女はそう言ってドアを開けたのだった。 「いらっしゃいませ、ようこそBouz Barへ。どうぞお好きな席にお座りください」 店の中は狭かった。右手にL字のカウンターがあるだけ。左手の奥には、古臭いジュークボックスが置いてあった。カウンターの中には、陰気臭そうな坊主頭の・・・バーテンダーだろうか・・・が、一人いるだけだった。カウンターの奥に太った男が一人座っていた。 「あっ、お客さんやね。それにしてもマスターすごいわぁ。なんでお客さんが来るのわかるん?。いや、ホンマ、マスターの言うとおり、はよぉ帰ればよかったわぁ。すんまへんなぁ、迷惑掛けて」 「いえいえ、また、ゆっくりと・・・・」 マスターなのか、この坊主頭の陰気臭い男が。しかし、この太った男、妙なことを言っていた。客が来るのがわかる、とかなんとか・・・。女はその場で突っ立ったままだった。その前を太った男が「すんまへんな」と言いながら、ドアの方に向かった。女の前を横切るとき、男は小声で言った。 「あんさんも、素直にマスターの言うこと聞いたほうがええでぇー」 何なんだ、この男は。偉そうに・・・大きなお世話だ・・・女はそう思った。思ったことがそのまま声になって出ていた。 「何よあんた、初対面の者に向かって、何よそれ。失礼な人ですね。私が素直じゃないっていうの?」 「あ、いや〜、こりゃあ、えらいすんまへんなぁ。そういう意味やのうて・・・。謝ります、すんまへんでしたぁ」 男はペコペコ頭を下げながら、そそくさとドアを開け、外へと出ていってしまった。 「まったく、失礼な人だわ。あんな客、入れないほうがいいんじゃありません?」 女は立ったまま、マスターと呼ばれる陰気臭い男に言った。 「ご迷惑をおかけいたしました。あの男にも悪気はないのですよ。申し訳ございません」 マスターの声は、妙に冷たかった。まるで感情がこもってないような、そんな印象を女に与えた。女の眉間にしわが寄り、口が曲がった。 「どうぞ、おかけください。お気に召さないようでしたら、お引き取り頂いて結構です」 女はマスターを一睨みする。 「ふん、何よその言い方。客も失礼なら、マスターも失礼な言い方をするんですね」 「お気に障りましたか?。それは失礼いたしました。で、どうされますか?」 ちっとも失礼なことをしたとは思ってないないような態度に女はムカついた。 「なによ、その態度。そんな態度だから、この店は流行らないのよ。だいたい、あのドアよ。店の名前が消えかかってるなんて、最低よ」 「あぁ、そうですか。それは御親切にどうも・・・・。で、どうされるんですか?。お掛けになるのか、お帰りになるのか」 マスターのそっけない態度に女は苛立ったが、さっきから立ちっぱなしの自分の滑稽な姿にも苛立った。女は、一瞬迷ったが 「そ、そうね・・・・ちょっと気にかかることがあるから、座るわ」 と言って、マスターの前の席に腰を下ろした。女が座るのを見計らって、マスターは静かに言った。 「ご注文は何になさいますか・・・・・あぁ、メニューは、そこにあります」 女はメニューを取って眺めてみた。そこには、どこのBarにでもある飲み物の名前が書いてあった。 「ふん、やっぱりね。ウソばっかり。他の店と同じような飲み物ばかりじゃない」 メニューを舐めるようにして見ていた女は、そう言った。 「Barですから、どこも似たようなものです」 マスターの言葉が耳に届いたのかどうか、女はまだメニューを見ていた。裏返して見たり、斜めに見たりして・・・・・。マスターは、そんな女に小さく溜息をついた。 「ご注文は?」 「ウソなんでしょ?」 女は何も注文をせず、ニヤッと笑ってそういった。口の端が上がっている。 「ウソなんでしょ、不思議な飲み物があるって話。あぁ、そうか、そういう噂をあなたが流しているのね?。いくら流行らない店だからと言って、そんな噂を流すなんて・・・・それは詐欺だわ」 女は、勝ち誇ったような顔をしていた。 「だいたいそんなものよ、都市伝説なんて。あぁ、来るんじゃなかった。無駄骨だったわ。まあいいわ、そうねぇ、ジンジャエールでも貰おうかしら」 マスターは、かしこまりました、というと、氷の入ったグラスとジンジャエールの瓶をカウンターにおいた。女はグラスにジンジャエールを注ぐと、一人しゃべり始めた。 「だいたい、こんな陰気臭い店は流行らないのよ。ドアからして陰気臭い。もっと明るくしなきゃね。それにいくら流行らないからと言って、あれはないわ。あんな噂を流すなんて、サイテーね。商売としてどうかと思うわ。あんな噂で客が来ると思ってるのかしら。もし、そう思ってるなら、認識が甘いわ。商売をナメテいるんじゃないのかしら。わかっていらっしゃる?、あなたのことを言ってるのよ」 女はそういうと、口の端を器用に曲げて、マスターを睨んだ。眉間にしわがより始めている。 「あの・・・・、先ほどから噂とかなんとか言ってますが、いったい何のことでしょうか?」 「ふん、そうやってとぼけるんだ。とぼけて逃げるのね」 「いや、とぼけていません、本当に何のことなのか、よくわからないのですが」 「あら、あなた、知らないの?。そんなはずはないわよねぇ。ふん、どうしてもとぼけるっていうなら、教えてやるわよ。この店には、不思議な飲み物があって、その飲み物を飲むと、悩みごとが解決したり、新しい人生に踏み出せるっていう噂よ。あなたが流しているんでしょ?」 「ほう、そのような噂が流れているのですか。それはそれは・・・・・」 「なにが、それはそれはよ、とぼけちゃって。自分で流しているんでしょ、その噂」 マスターは、下を向いた。肩が震えている。女は勝ち誇ったように「泣けば許されると思ってるのかしら」と小声で言った。が、次の瞬間、女は目をむいていた。 「あは、あははは。す、すみません。もうおかしくって。あはははは」 マスターは笑っていたのだ。 「な、何よ、笑うなんて失礼じゃない!」 女は立ちあがって叫んだ。マスターは、すみません、すみません、と笑ないながら繰り返し、 「あなたは、誤解されている。その・・・・何ていいますか、まいったなぁ、これは・・・・」 「ほらみなさい、困っている。やっぱりウソなんでしょ。その不思議な飲み物の話は」 女は腰に手を当て、勝ち誇ったような態度でそう言った。 「いえ、ウソではありません。ちゃんとあります。お客さん、どなたかの紹介じゃないんですね。・・・・まあ、確かに不思議な飲み物ですね、それはありますよ。ただし、そのあとの話が、ちょっと尾ひれがついているというか、なんというか・・・・。確かに、その飲み物を注文された方の中には、悩みごとが解決したり、人生が変わった方もいます・・・・確かにね」 一瞬、マスターの目が光った。それと同時に、先ほどまで笑っていたマスターの顔が急に暗くなった。女はお構いなしにまくし立てた。 「ど、どういうことよ。だって、メニューに載ってないじゃないの。いい加減なこと言わないでよね」 マスターは、もう笑っていなかった。いつもの暗い目、陰気臭い表情に戻っていた。小さくため息をつくと、 「いい加減じゃありません。メニューに載せてないだけです。・・・それは、いわゆる裏メニューです。あぁ、勘違いしないでください。なにももったいぶっているわけじゃありません。事情があって・・・・まあいいのですが、裏メニューを注文された方にのみ、お出ししているんです」 「事情?。ふん、どうせ、そういうことにして、もったいつけているんでしょ。見え見えよ。結局はいかさまなのよね。いい感じの店なのに、そういう胡散臭いことをしてるなんて、げんなりだわ」 「いい感じの店と言っていただきましてありがとうございます。確かに、胡散臭いと言えば・・・・胡散臭いです。で、それが何か?」 「何かって・・・そ、そんなインチキ」 「インチキではありませんよ。なんでしたら、お試しになりますか?」 立ったまま、まくし立てていた女にマスターは顔を近付けた。 「如何なさいますか、お客さん」 それは悪魔が囁いたような声だった。 「イ、インチキじゃないって・・・・。そ、そうね、た、試してもいいわね。でも、ウソだったらその時は・・・」 「料金は頂きません。そして、訴えるなり何なりなされても結構です」 女はマスターを鋭く睨みつけると、座り直した。眉間にしわが寄り、口の端が片方下に曲がっていた。 「初めにお断りしておきます。裏メニューをご注文されるには、ルールがあります。そのルールを守っていただきます。よろしいですか?」 「ルールって何よ。どんなルールかわからないのに、守れるかどうかなんてわからないわよ」 「それもそうですね。これからお話いたします。ルールはいたって簡単です。お客様は裏メニューを注文されます。そのあとに起こることを一切口外しないでください。この店に裏メニューがあることは、お話しても構いません。が、その裏メニューがどのように出てくるかは、口にしないでいただきたい。もし、そのことを話すと・・・」 「呪いがかかるんでしょ。ウソくさい話だわ」 女はそっくりかえって、バカにしたように言った。 「信じる信じないは、ご自由です。これは・・・・そうですね、忠告です。実際、この忠告に従わず、不幸なことがおきた方もいらっしゃいます。そうですね、そういうルールがある、ということだけ承知してください。ルールを守る守らないは、お客様の自由です」 マスターはそう言って、女を突き放すような眼でながめた。女は視線をそらす。そして、考え込んだ。 噂は本当だったんだ・・・。ここで起きたことをしゃべってしまったバカな人間がいて、本当に不幸な目にあったという噂。あれは本当だったんだ・・・いいえ、この男がウソをついているかもしれない・・・女は怯みかけたが、気持ちを立て直した。そうよ、この男、私をビビらせているだけだわ。こんなヤツ、許せない・・・・、何もかも許せないわ。こんな店の話をしたあの女も許せない。あいつも、こいつも、みんな私をバカにして、見下して・・・・許せない・・・・。 「ふん、わかったわよ。そんなことはどうでもいいわ。さっさと裏メニューを見せないよ」 「特に裏メニューというような、お見せするメニュー表はありません。お客様にお見せするのはこれだけです」 マスターは、そういって木札のようなものを出してきた。 「なによ、これ。この小汚いものはなに?」 女の口のはしが曲がる。 「これが裏メニューです。それを握って10数えてください。そうすれば、お客様に応じたカクテルの名前がその木札に出てきます」 女はカウンターに置かれた木札をしばらく見つめていたが、ふっと笑いだした。 「はっ、何を言うかと思えば、手品ね。な〜んだ、そういうことか。なるほどね、さっき口止めしたのはネタをバラすなってことね。くっだらない」 あぁ〜あ、くだらない・・・と言いながら女は笑っていた。 「おやめになりますか?。今ならまだ間に合いますが」 マスターは、女の悪態にも何の変化も見せず、静かにそう言った。その態度が女は気に入らなかった。 「試すわよ。何よ、その態度。いい加減に手品って見抜かれたことを白状すればいいのに。そっちがそういう態度をするなら、私が徹底的に追及してやるわよ」 「そうですか。では、その木札を手に取ってください」 マスターは、なぜか悲しそうな顔をしたのだった。そして、小声で「何が起きても・・・・まあ、自分で選んだ道ですからねぇ・・・」とぼそりと言ったのだった。女は、それが聞こえたのかどうか、マスターを睨みつけると、さっと木札を手にしたのだった。そして、数を数え始めた。 女が10数え終わると、木札が震え始めた。 「な、何よ、これっ」 女は木札をカウンターの上に放り投げた。気持ちの悪い・・・などとつぶやいている。マスターは黙って木札を見ていた。女も木札を睨みつけている。すると、そこに文字が浮かんできた。 「何よこれ、字が・・・・こ、凝った手品じゃない・・・・。気持ち悪いけど・・・」 「陰摩羅鬼(おんもらき)・・・・か。これはこれは、やっかいな・・・・」 そうつぶやくとマスターは、すっと女に背を向けた。棚にあるアルコール類などをいくつかとり、カクテルを作り始めた。女は無言でそれを見ていた。危ないことに関わったのかもしれない・・・女はそう思い始めていた。 マスターが振り返った。手には一つのグラスが握られている。 「これがあなたが注文された裏メニューのカクテル、陰魔羅鬼です。どうぞ」 マスターは、そういうとカクテルをカウンターの上に置き、女の前にすーっと押しやった。そのカクテルは、濁った泥のような色をしていた。それだけでなく、その濁った色の中に黒い渦が撒いていた。それはまるで、濁った沼の中に真っ黒な蛇が渦巻いているような、そんな不吉さをイメージさせるカクテルだった。 「ちょ、ちょっと、な、なによこれ・・・・。こんな気持ちの悪いものが飲めるわけないじゃない」 女はたじろぐ。 「いいえ、飲んでいただきます。裏メニューを注文したのはあなたです。もし、飲まないというのなら・・・・」 「何よ、何なのよ。いい加減にしてよ。女だからってバカにしてるでしょ。さっきから何よ。そんな顔をされたって、怖くはないわよ。もういいわ。帰ります。おいくら?」 「この、あなた特製のカクテルを飲まれないで帰る・・・・それはやめておいた方がいいと思います。できれば、飲んでいかれたほうがいいかと・・・・・」 「何よ、飲まないと何かあるっていうわけ?。それ、脅迫?。脅し?。まさか、私を酔わせて、何かするつもり?いかがわしいわよ、この店!。警察を呼ぶわよ!。いいこと、訴えてやるから、覚悟してなさい!」 女は立ち上がって、そう叫んだ。マスターは、悲しそうな顔をして、大きく溜息をついてから言った。 「飲まないのも結構。御自分の選択ですから。いいでしょう。しかし、何があっても知りません。未だかつて、この裏メニューのカクテルを注文されたにも関わらず、飲まなかったお客様はいらっしゃいません。・・・・そうですね、私も興味があります。そういうお客様が、この後どうなるのか」 マスターは、そういうとニッと笑ったのだった。その笑いは、不吉そのものだった。マスターはさらに続けた。 「ちなみに、何を訴えるのか知りませんが、何を訴えても誰も取り合わないでしょう。あなたは飲み物を注文した、私はそれに応じて飲み物を出した、あなたはそれが気に入らなかった、そして飲まずに帰った、料金は頂いていない・・・・。実際に行われていることは、それだけですから・・・・」 確かにそうなのだ。女は一口もカクテルを飲んでいない。見た目が気に入らないから帰ると言っているだけだ。マスターもそれを無理に引きとめてはいない。飲んだ方がいいと思う、と言っただけだ。 女は迷った。あれだけ威勢よく言い張った手前もある。偉そうなことを確かに自分は言った。言っておいて、見た目が悪いからというだけで、何も飲まずに帰っていいものか・・・。ましてや、この店のインチキも追求できない。それでは、自分が負けて帰るようなものだ。負けるのは悔しい。女は負けるのは大嫌いだった。そんなのは・・・許せない。 「負けるのは・・・・いいえ、負けてなんかいないわ。こっちから見限っただけよ。・・・・ふん、今に見てなさい。絶対、私の方が正しいのよ」 女はそう言うと、椅子に座り直した。カクテルを睨みつける。グラスを両手で握った。目を閉じ、一口カクテルを飲んだ。 「あっ、おいしい・・・」 思わず口からこぼれ出た言葉だった。女はカクテルを飲み続けた。やがて、グラスは空になった。 「ふん、見た目は悪いけど、味はいいわね。あなた、こんな美味しいカクテルを作れるなら、見栄えをもっとよくすれば、流行るんじゃない。そんなこと、ちょっと考えればわかるのに」 女はマスターをバカにしたような目で眺めた。 「何ていったかしら、このカクテルの名前。オン・・・・」 「オンモラキ、です。陰と多摩の摩、そして羅・・・で鬼と書きます。見た目は悪い・・・・当然です。陰摩羅鬼は、そのカクテルのように、濁った眼と、どす黒く歪んだ心を持っている妖怪ですからねぇ」 マスターの顔が女に近づいた。そのマスターの顔が二重になっていった。そして、そのままぼんやりとマスターの顔もカウンターも酒の飾ってある棚も・・・・闇の中に消えていったのだった。女はカウンターに突っ伏してしまった。 「なんですってぇ〜、濁った眼とどす黒く歪んだ心を持っているですってぇ・・・・、それは私のことかっ!」 そう叫ぶと同時に女は立ち上がった。 「はぁ・・・やれやれ、陰摩羅鬼か・・・・今日は厄日だなぁ・・・・」 マスターの顔がひきつったようになっていた。 つづく。 ☆第七夜 陰摩羅鬼(おんもらき)の棘 後夜 「私のことかっ、それは!、私が歪んでいるっていうのかっ!、もう、どいつもこいつも、私をバカにしやがって!」 女は、立ちあがってマスターを睨んだ。 「くっそ、あの男もそうよ。私の言うことなんか一つも聞かなかった。タバコは臭いし、部屋が汚れるから止めてと言ったのに止めないで外で吸ってた。お酒だって家で飲むなと言ったのに毎日勝手に飲んでいた。勝手に酒を買いこんで勝手に飲んでいた。あぁ、もう、タバコ臭いし、酒臭いのよっ!。臭い臭い臭い!。そんな男みんな嫌がるのよ!。臭くてたまらないわ!」 女は頭をかきむしって叫んだ。マスターは、静かに女に尋ねる。 「タバコねぇ・・・どのくらい座れたのですか、その男性は?」 「一日一箱よ。そんな程度よ。でもね、臭いの、臭いの、臭いの。私が止めてって言ってるんだから、止めればいいのよ。私の言うことを聞いていればいいのよっ!」 「その男性は、ひょっとして御主人さん?」 女はマスターを睨みつけた。 「主人?、あんな者は主人じゃないわ!。あんな者はゴミよ!、ゴミ、生ゴミだわ!。たまたま一緒に住んでいたけど、、いいえ、住んでやっただけのこと、ゴミだわ、あんなヤツは!」 「これはまたひどい言われようですね。でも、御結婚されていたんでしょ?」 「えぇ、そうよ、学生時代から付き合っていて・・・仕方がないから結婚してやったのよ。くっそ、あんなヤツと一緒になったおかげで、私の人生は台無しだわっ!」 「そんなころから、御主人さんはタバコも吸っていたし、お酒好きでもあった。あなたは、それを承知の上で結婚した」 マスターの言葉に、女は急に静かになった。じっとマスターを睨みつける。やがて、唇がわなわなと震え始めた。 「な、なんだっていうの?。何が言いたいの?」 「いいえ、特には・・・・」 「私が悪いっていうんでしょ!、私が勝手なことを言っているって!。どいつもこいつも同じことを言うのよ。みんな私が悪いって!。えぇそうよ、私が悪いのよ。それでいいわ。でもね、私は正しいのよ!。間違ったことは言ってないわ」 確かにそうである。女は間違ったことはいっていない。タバコは体に悪いから止めた方がいい、お酒だってほどほどにしないと身体に障る。止めたに越したことはないのだ。それが健康のもとである。女は間違ったことはいっていないのだ。だが・・・。 「だけど、誰もがあなたが悪い、と思っている」 「そうよ、そうよ、私は間違っていないのに・・・・。だけど、あの男は、私にうるさい!といった。私は、そんな態度だから、タバコも止められないような人間だから、出世しないのよって言ってやったわよ。それの何が悪いの?。私は事実を言ったまでよっ!。それなのに、あの男は・・・・私に向かって出ていけっていったのよ。だから、私は言ってやったわ。あんたみたいな人間を雇っている会社も会社よ。そんな会社、絶対につぶれるわ。その時はあんたは泣きを見るのよ。私の言うとおりだったってわかった時は、もう遅いのよ。いい気味だわ。あんたもあんたの会社も落ちぶれるに決まっているわっ!、てね。あははははは、で、そのあと、私はアイツを見捨ててやったのよ。あはははは」 女は大声で笑った。笑いながら椅子に座り、大きく息を吐いた。 「で、その男性の会社は潰れたんですか?、その男性は会社をクビになったのですか?、健康を害されたのですか?、泣きを見ているんですか?」 マスターの矢継ぎ早の質問に女はマスターを睨みつけ 「ふん、知るもんか。あんなやつのことなんか・・・知るもんか・・・・」 と横を向いたのだった。 「潰れてないんでしょ。泣きを見てもいない。いいえ、案外、あなたと別れてから幸せになっている・・・・そうじゃありませんか?」 マスターの言葉に、女は口をひん曲げ、眉間にしわを寄せて、不貞腐れた態度で横を向いていた。そして、小声で 「潰れてしまえ、潰れてしまえ、潰れてしまえ・・・・何もかも潰れてしまえ・・・・」 と言い続けていたのだった。 「どいつもこいつも私の言うことを聞かないのよ!」 女はそう叫んで突如として立ち上がった。 「私は正しいのよ。間違っていない。あいつらが、周りが、間違っているのよ。どいつもこいつ、私をバカにして!。誰も私の言うことを聞かないっ、みんな私をバカにしているっ・・・・。あんなヤツら、あんなヤツら、みーんな不幸になってしまえばいいのよ。いいえ、みーんな不幸になるに決まっているわ。うまくいくわけがないのよ。私を無視して、うまくいくわけがないわ。失敗すればいいのよ、潰れればいいのよ、不幸になればいいのよ、死ねばいいのよー!!!」 女はそう叫ぶと、はぁはぁと息を切らして立ちすくんでいた。 「哀れなものですね。最も不幸な者、それはあなただ。なぜそれに気付かないのですか?」 「私が不幸ですって?。私はぜーんぜん不幸じゃないわよ。今だって、別に不幸じゃない。たまたま私が気に入った仕事がないだけ。いいえ、私を雇えるような優れた会社がないから、働いてやらないだけよ。いいの、それで。子供たちが優秀だから、私を面倒見てくれるから。私のために喜んで働いてくれるの、私の子供はね。私の子育ては最高なのよ。だから、いい子に育ったの。親の面倒をよく見る子供にね。だから、私に働かせるなんてことはしないわ。すごいでしょ」 「子供に養ってもらうとは・・・・、いやはや、とんでもない親ですな。まだ、働ける年齢でしょうに」 「いいのよ、子供たちは好きで働いてくれるんだから。余計なお世話でしょ。うちのことに口を挟まないでちょうだい!。何よ、エラソーに。こんな小汚い店の人間が、エラソーに言わないでちょうだい」 「はいはい、そうですね。大きなお世話でした。あなたは、立派に子育てされたんですからね・・・・。でも、以前は働いていたんでしょ?。気に入らないから辞めた、そうじゃないですか?」 マスターにそう言われ、女の目の色が変った。怒りからなのか、両手が震えだした。 「何よ、何よ、何よ、あの女。実力もないくせにチーフになんかなりやがって。上司に媚なんか売りやがって。あぁ、わかった、あの課長、あの女の色気に騙されたんだわ。あの女、色気仕掛けで課長に媚を売ったんだわ。そうに違いない。じゃなきゃ、あんなバカ女がチーフのわけがない」 「私を差し置いて・・・ですか?」 「えぇそうよ、私を差し置いて、あんなヤツがチーフになったって、まとめることなんてできないわ。なにが、うまくいってますだ、ウソをつけ。うまくいってる訳なんかないくせに。あんなヤツがチーフなんて、うまくいくはずない。何が、みんな仲良くやってますだ!、ウソをつけ」 「でも、みんな仲良くやっている。少なくとも、あなたがチーフになるよりは、うまくいっているのではないですか?。そうは思いませんか?」 「う、うるさい!、どうせ私は嫌われ者よ。あー、もう、うるさい、うるさい、うるさい!。何もかもあいつらが悪いのよ。あいつらのせいよ、あいつらのせいで・・・・。あーくっそ!、あんな部署、潰れてしまえばいいのよ。いいえ、すぐにでも潰れるわ。絶対にね。あんなバカな連中の集まりだからね。潰れるのよ、潰れるのよ、潰れるのよ・・・・」 「でも潰れていない。うまくいっているのは事実・・・・ですよね。それをあなたは知っている」 マスターの言葉に女は目を向いた。悔しそうに歯を噛みしめている。 「ふん、今はそうかもしれないけど、す、すぐに潰れるわ。そうに決まってる!」 「それは・・・願望・・・ですよね」 「う、うるさい!。願望じゃないわ!・・・・そう予言よ!。予言してるのよ!」 「当たらない予言ですか?」 マスターが冷たく言い放った。女は両手を握りしめ、口を妙な形に曲げ、わなわなと震えていた。 「予言者ですか、あなたは。バカバカしい。いくら息まいてみても、現実は変りませんよ。あなたは嫌われ者だ」 マスターの言葉は刃物のようだった。女は眉間にしわを寄せ、口を曲げたまま、横を向いていた。 「何もいうことがないらしい。ならば・・・・」 マスターは、大きく息を吸い込むと 「いい加減にしないか、陰摩羅鬼!」 と叫んだ。 「いいか、陰摩羅鬼とは何か。それはあんたのような者をいうのだ」 マスターの口調はいつになくキツイものだった。マスターは、女に顔を近付けると、呪いを吐くような口調で 「陰摩羅鬼・・・・オンモラキ・・・というが、本来は『陰(いん)マーラ鬼(おに)』であろう。陰とは、陰の者、陰険な者を意味する。いや、それは心の陰の部分・・・妬み、羨み、恨み、ひがみ、蔑み・・・といった、心の陰のことを言うのだ。そう、あなたの心、そのものだ」 と言った。女は「うっ」と言いながら身を引いた。額から汗が流れ落ちた。 「マーラとは、インドの言葉で、悪魔を意味する。悪魔とは、人を害する者、人を呪う者のことだ。これも、あなたそのものだ」 マスターは、女から離れ、そういうと女を一瞥した。 「な、何よ、私が・・・私が呪ったというの?。黙って聞いていればいい気になって」 女はそういったが、その声に力はなかった。 「呪っているでしょ。あなたは呪っている。周囲の者すべてをね。みんな不幸になればいい、潰れてしまえばいい・・・・なたはそういった。これは呪いの言葉だ。不幸になれと呪っているのだ。まさに・・・」 マスターは、女の耳元に顔を近付け 「悪魔そのものだ」 というと、顔を遠ざけたのだった。 「あ、悪魔・・・・私が悪魔?、いい加減にしてよ、私のどこが悪魔だっていうの?。なんてひどい人。なんてひどい店なの?。客に向かって悪魔とは何よ!。バカにするのもいい加減にしなさいよね!。こんな店、こんな店、ぶっ潰れるに決まってるわ!」 女はこぶしを振り回して、そう叫んだ。マスターは、冷やかに女を眺めていた。そしてふと笑うと、 「それこそが鬼。そうやって大声で叫び、喚き、時に暴れる。まさに鬼だ。今のあなたの顔、そういう顔を鬼の形相という。まさにあなたは陰なるマーラの鬼、そう陰摩羅鬼そのものだ!」 マスターは、女を指さし、そう叫んだのだった。 「お、おん・・・もら・・・・き・・・」 女はそうつぶやくと、椅子に崩れ落ちた。まるで、支えをなくした人形のように力なく座っている。 「いい加減に自分が陰摩羅鬼だと受け入れたらどうです。そうでないと、陰摩羅鬼から抜け出せませんよ。いつまでそのような姿でいるんですか。陰摩羅鬼でいる限り、誰もあなたを受け入れてくれませんよ。もっと素直になったらどうですか。本当は、周囲の人たちとうまくやっていきたいのでしょう?。だったら、自我を抑えることも知らなければなりません。ひがむのもよくない、妬むのもやめましょう、蔑みはもっとよくない。何もかも、自分が正しいと思うのは傲慢でしょう。実力もないくせに、偉そうな態度を取るのはいい加減にやめなさい!」 「じ、実力がない?。ど、どういうことよ。し、失礼じゃないの、そんなこと・・・・、そんなこと言わなくても・・・」 そういうと女は泣き崩れた。 「じ、実力がない・・・違うわ。私は実力はある。あるけど、受け入れられないだけよ。そうよ、実力はあるのに、何もかもうまくいかないのよ。どうやっても、思うようにならないのよ。私が何かやると、必ず反発される。何よ、少しは私の言うことだって聞いてくれてもいいじゃない。誰も彼も、私をバカにして・・・・もう、何もかも消えてしまえばいいのよ」 「実力があるなんて、自分でよく言えますね。うぬぼれるのもいい加減にしなさい」 「うぬぼれだって言うの?。私には実力が・・・・ないっていうの?」 「あれば、周囲の者もあなたについて行くでしょう。あなたの思うようにもなるでしょう。でも現実はならない。当たり前だ。自分の思う通りに行くわけなんてないでしょ。実力がないものが、周囲とうまくやっていこうと思えば、妥協もしなきゃいけません。周囲の意見を取り入れ、周囲と歩調を合わせていかねばなりません。何もかもが、あなたのペースで動くわけじゃあないんだ」 「だって、思う通りになっていく人だっているじゃないの、実力なんてないくせに」 「それは、その人が、周囲の意見を取り入れているからです。周囲の人たちに逆らわないからです。周囲の人たちと同意見だからです。それも実力の内。そういう意味では、あなたよりも実力があるんですよ、そういう人は」 「私は違うっていうの?。私はあいつらより劣るっていうの?」 「そうですね、あなたはあえて、周囲とは異なる意見を言うようだ。いや、同じことを言っても、あえて嫌な言い方をするようだ。周囲の者を怒らせるような、そんな言い方をする、そうでしょ」 女は黙り込んだ。 「あなたは、自分の意見が通らないからどんどん荒れて行く。すさんでいく。実力がないくせにあると勘違いして、自分の意見を通したいから、喚く、脅す、大声で叫ぶ・・・・脅すわけです。鬼ようにね。あなたは、単なる我が儘な女なんですよ。実力はないし、自分のこともよくわかっていない、実力もないくせに、さもできるように振舞いたいだけだ」 マスターは、そういうと女を冷たい目で見下した。 「きぃぃぃぃぃ!」 いきなり女が叫んだ。 「私を・・・・私を差し置いて・・・・お前らだけでうまくやろうなんて・・・きぃぃぃぃ!、許せない!・あぁぁぁぁぁ、もうぅぅぅぅ、何もかも許せない!お前らの幸せそうな顔、それが許せない!。みんな仲良く?、そんなの許せない!。なんで、なんでよ、なんで、そんなに夫婦仲良くやってるのよ!、あぁぁぁ、もう許せない。私より幸せなんて許せないのよっ!。私より楽しそうな顔をするなんて許せないのよっ!。なんで、私が抜けたらみんなうまくいくの?。あぁぁぁ、いやだぁぁぁぁ、もう許せない。許せない許せない許せないっ!。私より幸せなんて・・・・許せないのよっ!」 女は頭をかきむしりながら、泣き叫んだのだった。 「それがあなたの本音ですね。すべては妬みだ」 マスターは、氷のような冷たい声でそう言った。 どん! 女は、思いっきりカウンターを叩いた。 「妬んでなんかいないわ。気に入らないだけよ。あんな何も知らないような連中が、のうのうと生きているのが許せないだけよ。ふん、誰が妬むもんですか」 「いいえ、それを妬みと、世間では言うのですよ」 「ふん、ならば、世間が間違っているのよ。私は妬んでない。愚か者が浮かれているのが気に入らないのよ。ふん、実力もないくせに、バカなくせに、何も知らないくせに、楽しそうな顔をしやがって・・・・。私はね、そんなバカなヤツらに警告してやってるの。わかる、親切に教えてやっているのよ。あは、あはははは」 「それはそれは・・・・、なんという親切。あなたにそんな親切をされる方は、とても迷惑でしょうねぇ。最悪だ」 マスターの嫌みに、女は笑い声を止め、憎しみのこもった眼でマスターを睨んだ。 「そんな目で睨まれても、怖くとも何ともありません。上っ面だけですからね、あなたは。あなたには誰かをどうこうしようとするような、そんな眼力もありませんよ。いいえ、あなたは、他人の上を行くような、そんな実力もない。ましてや周囲の人からの信望もない。あなたの言うことなど誰も聞かないのは当然でしょう。誰もあなたが実力があるなんて思ってませんよ。いったいそんな自信がどこから湧いてくるのか・・・・。惨めで哀れなものですねぇ。陰摩羅鬼さん」 いつになく、マスターの口調はキツイものだった。女は、口をポカンと開けたまま、焦点の合わない目でマスターの後ろの酒瓶を見ていた。 女は、頭を左右に振った。まるで何かから逃れるように。 「ひどい・・・、ひどい言い方・・・。あんた、それでも人間?。ふん、悪魔はあなたよ。ひどいヤツだわ・・・・。あぁー、すっきりした。もう覚めたわ。ふん、こんな店潰れてしまえ。お前なんか、不幸になってしまえ・・・・。どうせ、どいつもこいつも私のことなんか理解できないのよ。もういいわ。・・・・そうよ、私は陰摩羅鬼よ。陰気臭くて、ひがんで、妬んで、羨んで、恨み事ばかり言っている、人の不幸を願っている悪魔よ。鬼の形相で周りの人たちを睨みつけ、あげく嫌われてしまう・・・陰摩羅鬼よ。でもね、何度でも言うわ。私には実力があるの。力があるのよ。私は、優れているの。みんなが何もわかってないのよ。だから、教えてやろうとしてるのよ。それが何よ、よってたかって、お前の意見は非現実的だとか言って・・・・。私の方が正しいのに、あんな甘っちょろい考えが通るなんて、許せないのよ。あいつらこそが、実力がないのよ。だから、呪ってやるのよ。そうよ、呪ってやるわ。一生呪ってやるわ。あんな連中、あんな会社、あんなヤツら・・・それから、お前もね。呪ってやる、呪ってやる、呪ってやる。そうよ、潰れてしまえばいいのよ。何もかもね。私が認めたもの以外、みんな不幸になってしまえばいいのよ。それの・・・・それのどこがいけないのよ!。・・・・うふふふ、そうよ、その通りよ、私は陰摩羅鬼よ!。それのどこがいけないのよ!」 女は立ちあがってそう叫んだ。 「いいえ、陰摩羅鬼でいいでしょう。そうあなたが認めるならば、それはそれでいい。あなたは陰摩羅鬼として生きていけばいい。・・・孤独に耐えながらね」 そう言ったマスターの顔は、闇の中に浮かぶ死人のようだった。 「ひっ」 女は息を吸い込むような小さな叫び声をあげると、傍らに置いてあったバックを掴んだ。バックから財布を出し、カウンターの上に一万円札を一枚置くと、逃げるようにドアの方に向かった。 「あなたは、この先も一生陰摩羅鬼として生きるがいい。実力があると勘違いをし、世の中を呪い、世の中を恨み、妬み、蔑み、そして孤独に耐えて生きて行くがいい。陰摩羅鬼にはそれがお似合いだ。一人ぼっちで生きて行くがいい」 「いや、いやーっ!」 女はそう叫ぶと、ドアを乱暴に開けて外の闇の中に消えて行ったのだった。 マスターは、大きく溜息を吐いた。 「救い難きは、陰なる心に支配された者・・・・か。陰なる我を捨てきれない者は、生きるのが苦しいばかりなのに・・・」 マスターは、そうつぶやき、カウンターの上に転がっていたグラスを下げたのだった・・・・。 第七夜 陰摩羅鬼(おんもらき)の棘 完 |